数年前のこと、妻に誘われて久しぶりに映画館へ出かけた。徒歩で10分ほどのところに、シネコンがあるのはありがたい。秋の日差しの中、公開初日の第一回上映に足を運んだ。妻はよく娘と映画を見に行く。娘とは映画の志向が少し違うようだが、娘はお財布が傷まないし、妻は一人で映画館に行けない人種なので、ちょうど釣り合っているらしい。「あの子、急にデートだって言うから」代役らしい。まあ、たまにはいいかも。と思っていたら、ちょっと面倒なことになった。公開初日で、4Dシアター。ファンタスティック・ビーストである。シートが揺れ、雨だとミスト、風も吹くという映画以上のエンタメである。「公開初日」という単語が…続きを読む
「せーの」と、サトルがジャンプした。私は、その様子をスマホで録画していた。「どう?どう?俺、いま2022年になる瞬間、地球にいなかったよね」「そうね」「すげぇ。どう?動画みせてよ」私は、スマホをサトルに渡した。「おおおお、高っけぇ。すげージャンプ。ありがとう、ユミ。すげぇ動画。アップしよ」私は、その動画を最初から見てみた。?サトルのジャンプする後ろには、大きなデジタル時計が写っていて、23:59から0:00に変わる瞬間を写そうとしていたんだけど。?サトルがジャンプしようとして、膝を曲げたときには、もう後ろの時計、0:00になってる。あれ、2022年になった瞬間、しっか…続きを読む
俺は、引いていたオヤジの手が、急に引き止めるように止まったことに気がついた。「俺を、ここに置いていけ」「え、でも」「いいから置いていけ、急げ」俺は、オヤジをその場に残し、先を急いだ。「トーステッド・ホワイトチョコレート・フラペチーノと、トーステッド・ホワイトチョコレート・モカを一個ずつ。グランデで」昼時のスタバは、席が無くなるから、オヤジがいて助かったよ。俺は、窓際の席に座っているオヤジに、グッジョブのサインを送った。オヤジも同じサインを送ってきた。良い昼だ。…続きを読む
「くっせぇ」寝袋の中から、俺はこう叫んだ。目が覚める寸前から、頭からかぶった寝袋の中が、臭かったのだ。手を伸ばし、顔の前にあるジッパーを勢いよく開ける。飛び込んできたのは、さっきよりも強い臭いだった。「なんだよこれ」寝袋を蹴り飛ばし、立ち上がると、俺は窓に駆け寄った。そのまま、窓を全開する。雪混じりの風が、部屋に飛び込んでくる。部屋の臭いが、雪の結晶と入れ替わりに出ていくのが目に見えるようだ。「すまんな」康介が、俺の肩を叩いて言った。「お前の実験装置の横で、今朝この瓶割ったんだわ」康介の示した瓶には、無水エタノールというラベルが貼られていた。「それ一本じゃあ、そ…続きを読む
「床板はいらんかね」火事で全焼した長屋の後片付けをしていた熊五郎は、長い板を担いだふんどし男に声を掛けられた。「何だぁお前」「床屋だよ」「なんだってぇ?」「ゆかやだ、ゆか」熊五郎は、男に近づき担いでいる板を吟味した。「これを、いくらで売るってんだ」「一両」「バカ言うな。けぇれ」熊五郎は、足元にあった石を男に投げ、追いやった。「おい、熊さんよ、どうしたんだ」通りかかった八が声をかけた。「おう、八っつあん。とんだ食わせもんがいたもんだ」「あいつか」「床板いらねぇかって、ボロ板を一両で買わせようとしやがった」「一両」「おうよ」「火事場泥棒じゃなくて、火事場詐欺師か…続きを読む
今年(2021年)は、5月26日20:11に皆既月食を見ることができる。日食と違い、場所によって見えるか見えないかの差が少なく、その土地が夜か昼かで見えるか見えないかが決まる。今回は月が出るころに始まり、20時ごろ食の最大という絶好のタイミングになっている。ただ、皆既食の時間が短くて、20分にも満たない。ここを逃さないように。日本ではこの日、月が上る前から半影(月から見て太陽が一部地球で欠けている状態の薄い影)食が始まり、部分食→皆既食となっていく。月は次第に地球の影に浸食されていくのである。日食と違って、月食は「完全に月が見えなくなるわけではない」のをご存じだろうか。月食を見ても、日食…続きを読む
彼女の待つレストランに急いでいる。なにせ、今日は特別な日だから、遅れるわけには行かない。指輪のケースを入れた、スーツのポケットを確かめながら、入り口近くの角を曲がった。進めない。肩を掴まれてる事に気付くのに、数秒かかった。振り向くと、どこかで見たような男が立っていた。「ちょっと、付き合ってくれるかな。まあ、時間は取らせないから」俺を引っ張る力は、どうにも抵抗できないレベルだ。そのまま、引きずられるように、隣の雑居ビルの階段へと連れて行かれている。あ。思い出した。この男、彼女の元カレだ。裏稼業がどうとか、仲間がどうとか、彼女が言っていたな。この部屋、何。ど…続きを読む
「こら、はじめ、待て」家から飛び出して学校へ行こうとしていはじめを、俺は呼び止めた。「ほら、さっき先生からメールが来てるんだよ。昨日聞いたんだろ?不審者がいるから集団登校を守って下さいってことんなんだよな」「うん」わかってないだろ。「集合場所は、あの角なんだから、みんなが集まってからでも遅くないから、ここで待て」「ええええ」「だめ」「はーい」「ほら、えみちゃんと、剛君も来たから行っていい」「行ってきまーす」先生、あのメール、『個々には来ないで』って書いてあったけど。『此処には来ないで』の変換ミスじゃないよね。夜になっても、だれも帰ってこない…続きを読む
気がついたら、宙に浮いていた。目の前には、闇の中に森の木々が茂っているのが気配でわかる。このままでは、この森の中へ吸い込まれていってしまう。多分だが、そのまま、誰も探し当てられないだろう。ここを走っていることも、誰にも知らせていないのだから。開発中のライトウェイトスポーツカーを、勝手に持ち込み、勝手に走らせていたら、このざまだ。ジャンプスポットのフルークプラッツの手前で減速が必要だったんだが、思わず踏み込んでしまった。このサーキットは、ニュルブルクリンク。今いる北コースの愛称は、グリーン・ヘル。ジャッキー・スチュワートが名付けただけのことはある。踏んではいけないリン…続きを読む