息を切らしながら鍵を回し、玄関の扉を開けると、藤村智樹は部屋のなかに飛びこんだ。すぐさま扉を閉め、そこにぴったりと背中を預ける。しばらくはそうしたまま身動きひとつせず、ただ何度も細かく息つぎしているだけだった。 ようやく息が落ちついてくると、扉を少し開け、外の様子をうかがった。 築五十年以上は経っているはずの、団地の薄汚れたコンクリートの内階段は人影無く静まりかえっているし、踊り場をはさんだ真向かいの部屋は何年も前から空き部屋になっていた。 彼はほっとしたように息をつき、ふたたび扉を閉めて、しっかりと鍵をかけた。そして、片手に持ったままだったビニール袋を上がり框にそっと降ろすと、その…続きを読む
その子どもに初めて出会ったのは、九月も半ばを過ぎたころ、まだ夏の暑さが地面の上をしつこく覆っていた、ある昼下がりのことだった。 その日、杉浦香菜は少し遅めの洗濯を済ませたあと、手近なものをショルダーバッグに入れて背負うと、玄関でサンダルを履いた。 玄関脇の壁には小さな鏡が掛けてある。香菜はいつものようにそれに顔を近づけた。やたらと大きな目と団子鼻ばかりが目立つ顔はまったく化粧しておらず、頬のあたりに小さなシミがあるのも確認できる。服装はきっちり襟元の詰まった長袖ブラウスにジーンズという出で立ちだ。よし、これで大丈夫。 部屋を出て、アパートの外付け階段を降りると、日光が容赦なく照りつ…続きを読む
昭和十一年八月のことです。 ご飯に目刺し、おみおつけ——そんないつもの朝ごはんを食べおえた後、太郎君は「いってくる!」と大きく一つ叫んで玄関へ走りました。「何だい。また行くのかい。」 即座に背後から母親が声をかけてきます。「まったく、このあいだも駐在の高野さんに説教されたばかりじゃないか。」(ふん。たかがチューザイが何だ。)太郎君は心のなかで呟きました。(ほんとに止めたきゃケイシチョウの刑事でも連れてきてみやがれ。) 草履をはいて、ガラスの引き戸を開けます。外へ飛びだす間際、母親の「やっぱり父親がいないとダメかねえ。」という独り言がかすかに聞こえました。 太郎君の家は、本…続きを読む
これはこれは、遠い所をよくおいでくださいました。電車とバスで来られるということで大変に気を揉んでいたのですよ。 どうぞ適当な場所にお寛ぎください。喉が乾いているようでしたら、そこにコップと水差しがあります。すみませんが手酌でどうぞ。 おやおや、大変な飲みっぷりですね。よほどお疲れだったのでしょう。ご苦労様でございます。ところで、ここまで来られるのにどれほどかかりましたかな? ……そうですか。やはり二時間かそこらは。それはご苦労様でございました。 なにぶんこの通り、この屋敷は奥多摩でも特に山奥にあるもんですから、こうして来ていただくだけでもお客様にご不便をおかけしなければならないわ…続きを読む
“彼女”は生まれた瞬間、産声を上げなかったのだそうです。 出産の介助をした助産師さんたちが、その小さくてまん丸の真っ赤な体をいくらさすってあげても彼女はなかなか泣き声を出してはくれませんでした。 産声を上げない赤ちゃんは自力で呼吸することができなくなって、小さな脳に障害が残ってしまうこともあります。焦った助産師さんが小さなお尻を優しく叩いてやると、“彼女”はようやく泣き始めました。 えんえん。えんえん。 それまで泣かなかった分を取り戻すようにして、“彼女”は力いっぱい泣き続けました。その泣き声は、出産したばかりで意識が朦朧とした“彼女”の母親の耳にもちゃんと届きました。顔中汗…続きを読む
俺の話を聞きたいってのか。おいおい唐突だなあ。 会って早々、いきなりそんな催促をされるとは。無茶ぶりっていうんじゃねえのか。そういうのを。 まあいいさ。俺だって話をするのが嫌いなわけじゃない。お望み通り、ひとつ物語を聞かせてやろう。 そうだな……よし。これは俺と、一人の少年の物語だ。まずはあいつと俺が出会ったところから話すとするか。ほら、物語は出会いから始まるとも言うだろ? さあ、そこに腰かけてゆっくり寛いでくれ。コーヒーでも振舞ってやりたいところなんだが――あいにくそれも無理な話だからな。悪いな。…続きを読む
世間一般の主婦の例に洩れず、田中知子の朝も慌ただしい。朝の六時に起床し、顔を洗い、着替えてすぐに台所に立つ。朝食の準備をする合間に洗濯機を回しつつ、ねぼすけな夫と息子を起こしに行く。だが、この夏休みの時期は、息子を起こすという最も厄介な工程が免除される。〈お子様に変わらない生活リズムを〉なんて学校のおたよりは言うけれど、そんなことには構っていられない。あっという間に鍋の味噌汁は煮立ち、洗濯機は洗濯終了のブザー音を鳴らすのだ。 だから夫が家を出た後、瞼をこすりながら朝食の席についた息子の雄助が「そういえば、昨日びっくりする人に会ったんだよ」と言った時、知子はお椀にご飯をよそう手を止めずに「…続きを読む
しっかりと手を洗い終えた後、芳子は庭に出ようと玄関の扉を開けた。知らないうちに雨が降り始めていた。静かな雨だった。 午前中まで青空さえ見えていたのに、いつの間にか鈍色の雲が空をすき間なく埋めていて、玄関先の階段はぽつりぽつりと斑点のように黒く濡れている。(もう少し強く降ってくれれば) 芳子は空を見上げる。さっき着替えたばかりのシャツの下はもうじっとりと汗をかいている。人出が減って、少しは人目につきにくくなるかもしれない。 扉を閉め、傘も持たずにそのまま庭のほうへと回る。頭や首筋に雨粒が当たった。 庭は車一台分ほどの広さしかない。雑草だらけの地面の真ん中で物干し台が窮屈そ…続きを読む
カランカランとドアベルが鳴って、わたしは顔を上げた。彼が扉を開けて店内に入ってくるところだった。彼の格好は一年前とほとんど変わらなかった。カーキ色のチノパンに紺のリネン地のシャツ。手にはトートバッグをぶらさげている。「いらっしゃい」 カウンターから店のご主人が声をかける。こちらは白髪にベストという出で立ちだ。 応えて彼が目顔でうなずく。ご主人もうなずく。知り合いなのだ。 彼は席に着く前に、まず店内をさっと見回した。大通りから離れた路地にあるこの喫茶店は、時たま近所のお年寄りたちの憩いの場になるくらいで滅多に混むことはなかった。 いまも店内に客は居らず、ご主人しかいない。…続きを読む
午前三時。 いつものように、あなたは目を覚ます。天井は暗く、部屋は静まりかえっている。 身を起こし、ベッドを抜け出して、窓辺に近寄ってカーテンを開ける。一連の行動に一切の迷いはない。 アパートの二階。南向きの窓からあなたが臨むのは、どこにでもありがちな住宅街の風景。いまだ微かな夜明けの光さえ見えない暗闇のなかで、どこも住人どころか家そのものが寝静まっているように見える。 あなたは思う。この暗闇こそ大好きだ、と。 世界が動きはじめるずっと前の、その予兆さえ感じさせない時間。あらゆる物や人がやすらぐ休息の時。それを包んでくれるのが、この闇だ。 ぽつりぽつりと点在する街灯…続きを読む